大光炉材60年史
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52 から出張で対応していたが、取引が順調に拡大したことから、昭和57年(1982)広島県福山市に福山駐在所(現福山営業所)を開設した。さらに、平成2年(1990)には神奈川県川崎市に京浜駐在所(現京浜営業所)を開設している。これにより、従来からの九州(福岡県北九州市戸畑)・大分・大阪・名古屋・君津・室蘭の各事務所、広畑・釜石の出張所、和歌山・鹿島の駐在所と合わせて、高炉を備えた各製鉄所への営業ネットワークが完成することになった。7.本社新総合事務所が完成 昭和56年(1981)9月、小林滉副社長が代表取締役社長に就任し、創業者である小林武爾社長は代表取締役会長となった。小林滉社長は、昭和51年(1976)の副社長就任以来、実質的には経営のトップとして、流し込み樋材「FIREWALL BFシリーズ」のデモンストレーションのためのプロジェクトを指揮するなど、大胆な経営を進めてきた。病気療養中であった小林前社長は、副社長の行動を叱咤はしても褒めることはなかったが、内心では高度成長から低成長へ劇的に変わった変革期を見事に乗り切ったどころか、さらに成長させたその経営手腕を高く評価していたのだろう。このとき、正式に社長の座を譲ることになった。 昭和57年(1982)8月、現在の本社となる本社新総合事務所(鉄筋コンクリート2階建て)が完成した。事業の拡張とともに手狭になっていた本社の拡張は、昭和40年代後半からの課題であったが、大分工場や新研究所の設置などが優先され、どうしても先送りになっていた。また、小林滉社長にとっては徒歩で1分ほどの距離とはいえ、研究開発部門と本社部門が離れた状態になっていることがもっとも気にかかることであった。そこで、新しい本社事務所では、営業・技術・生産・購買・業務が一つのフロアに入るワンフロア方式を取り入れた。 「同じフロアにいて日ごろから顔を突き合わすことで、自然と情報共有できます。たとえば、どこかで何か問題が発生してもすぐに分かるので、部署を越えてみんなで知恵を出し合って対処できる。当社のような仕事では、そうした情報共有がもっとも大切なこと」と、小林滉社長は話す。他の会社の経営者が本社を見学に来ると、当時も今も、「私の会社も、こんなふうにできたら」と羨ましがられるという。8.万全の準備で上昇気流に乗る 昭和50年代は日本の鉄鋼業の大転換期であり、鉄冷え時代の始まりでもあった。また、不定形耐火物、特にキャスタブル耐火物の一大変革期であり、ローセメントキャスタブル耐火物という耐火煉瓦の品質に匹敵する不定形耐火物が開発された。大光炉材は、ローセメントキャスタブル耐火物の乾燥時の爆裂防止対策として金属アルミニウムを利用するという独自の技術で、画期的な流し込み樋材として他社に先駆けて商品化した。 これが、ユーザーの求める「省エネ・省資源・省力」ニーズにマッチ

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