大光炉材60年史
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51通史 第2部 第6章・鉄冷えからの新たな飛躍(1976~1982)備への転換が本格的にすすめられるようになってきた。「省エネ・省資源・省力」のスローガンが声高に叫ばれ、耐火物もそれに適合するものが求められた。 こうした状況の中、大光炉材のプロジェクトチームは、日本鋼管福山製鉄所(現JFEスチール西日本製鉄所福山地区)をはじめ、川崎製鉄千葉製鉄所・水島製鉄所(現JFEスチール東日本製鉄所千葉地区・西日本製鉄所倉敷地区)、新日本製鐵釜石製鐵所・君津製鐵所・名古屋製鐵所・広畑製鐵所・堺製鐵所と全国の高炉を回った。プロジェクトメンバーにとってもっとも印象に残っているのが、日本鋼管福山製鉄所での施工であった。 その当時、大光炉材は日本鋼管との取引が少なかった。いわば、資本関係のない会社が容易に参入できない牙城であり、日本鋼管との取引を拡大することは、営業部門の念願であった。営業本部長でもあった小林滉副社長を中心に粘り強い営業活動を続けているなかで、「良いものがあれば使ってみてもいい」という言葉をもらった。そして、自信を持って提供できる流し込み樋材ができあがったことを説明に行くと「では使ってみよう」と採用が決まった。それは主樋で30tという規模で、新日本製鐵室蘭製鐵所で行ったトライアルに比べ、はるかに大きなものであった。 福山製鉄所での施工を前に、新研究所と同時に設置された大型試験場で流し込み樋材の施工デモンストレーションが行われた。小林武爾社長も病をおしてその試験に立ち会った。広島県立福山誠之館中学から陸軍士官学校へと進んだ小林社長にとって、福山は多感な思春期を過ごした思い出の地であり、福山製鉄所への参入には強い思い入れがあり、絶対に失敗は許されないという心境だったのだろう。 プロジェクトチームは万全の準備をして、福山製鉄所での施工に臨んだ。大光炉材のメンバーが淡々と作業を続けていると、製鉄所の人たちが次々と集まってきた。従来の施工方法とはまったく違う作業を興味深く見学していた。そして、できあがった樋の性能が従来に比べて長寿命で、メンテナンスも大幅に軽減されることが分かると、現場からは「これはすごい」と賞賛の声が上がった。 これを機に、念願であった日本鋼管福山製鉄所との取引が拡大したほか、新たな市場を次々と獲得し、大光炉材は成長への道を歩むことになった。6.各地に営業拠点を設置 流し込み樋材の積極営業が功を奏し、取引先の製鉄所が広がったことから、営業拠点を次々に拡充した。昭和52年(1977)9月、広島県呉市に呉駐在所を開設し、翌53年(1978)4月には岡山県倉敷市に水島駐在所(現・水島営業所)を開設した。昭和55年(1980)10月には千葉県千葉市に千葉駐在所(現・千葉営業所)を開設した。 日本鋼管福山製鉄所との取引は、当初は大阪事務所(現大阪営業所)

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