大光炉材60年史
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41通史 第1部 第5章・大光ブランドの確立へ(1973~1976)1.中原試験所の開設 拠点展開、生産機能の充実を進めてきた当社は、その後、量より質への転換を強調していくことになる。小林社長は昭和48年(1973)2月発行の社内報『たいろ』に、「今後は量的拡大を図ることは困難であり、一定の量の中での質の安定化が必要になります。」と述べている。 この方針にあって、開発研究所の体制を強化するとともに、新しい試験場を誕生させることになった。その中原試験場は、昭和48年(1973)4月11日、北九州市戸畑区中原先の浜に技術研究の中枢を担うために開設された。 主要設備として、混合混練機・遠心力成型試験機・振動成型試験装置・スラグボール乾燥炉・低周波誘導炉などが備えられた。 また開発研究所の設備についても、4連式耐クリープ試験機・高温型示差熱天秤・X線解析装置・全自動耐圧試験機・全自動熱膨張測定装置などが加えられた。2.コストダウンで不況をしのぐ 第一次長期経営計画(5ヵ年計画)の目標であった売上30億円は、最終年度の48年度においては未達に終わった。しかし翌49年度には、一挙に売上40億円を突破させたのだった。 この業績には、創立20周年を迎えて全社一丸となって臨んだことに加え、大分工場の好調と工事部門の活躍が大きく貢献したことは確かであった。GNP、粗鋼生産高とも対前年比マイナス成長という厳しい情勢下で、減収減益企業がほとんどであったことから、「大光炉材は不況に強い」という評価を得たのも事実である。 ただし当然ながら、この不況に対する強さは偶然に実ったものではない。当社では昭和48年(1973)以後、購買部門をコストダウンの主役に据え、3工場の資材購入における集中管理を委ねてきた。これは企業活動の重点を、生産・営業から購買・管理へと移行させる試みであった。その結果、購買部門による積極的な価格交渉と供給安定が実り、このたびの好業績の原動力となったといえよう。 そして当社は、業界トップメーカーであり、同時にプライスリーダーの役割をも担う企業となったのである。3.新製品GUNROCKの活躍 昭和40年代後半になると、耐火物業界の趨勢は不定形耐火物の需要増を確かなものとしていった。当社がかねてより開発に取り組んだ吹き付け用耐火物が商品化され、「GUNROCK」の名で発売されたのは、昭大光ブランドの確立へ(1973~1976)第5章ガン吹付機による施工GUNROCKの吹付けテスト

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