大光炉材60年史
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37通史 第1部 第3章・基礎固めから拡張へ(1964~1969) なお、当時の会社概況は以下のとおりであった。 資本金:800万円 従業員:130人 生産高:17,615t/年 役員:取締役社長 小林武爾 生産担当取締役 大槻鉄二郎 管理担当取締役 富岡忠朗 また広畑、大阪、東京、室蘭、名古屋と続いた拠点展開も、この年の和歌山事務所開設をもって一段落を迎え、販売網の基盤が確立されたのだった。3.外国部を新設 昭和39年(1964)は東京オリンピック開催の年であり、東海道新幹線の開通や高速道路網の拡充など、わが国の経済力を海外にアピールした年でもあった。 当社は、すでにブラジル・フィリピン・タイなどに製品の輸出実績を有していたが、具体的な国際化戦略にもとづいたものとはいえなかった。そこで昭和40年(1965)8月、東京都千代田区の全国町村会館内に外国部を設置し、小林社長の長女 和子の夫 大坪秀人が部長に就任した。大坪は東大経済学部出身で計数分析に詳しく、また海外事情にも通じていたことによる抜擢であった。 翌41年(1966)に外国部は本社機構に組み入れられ、海外関係・東京事務所・室蘭事務所を包括する第二営業部として再スタートを切った。 同年、さっそく三菱重工業株式会社広島造船所を経由して、台湾へキャスタブル耐火物ファイアボックスOAC-EAが、同じくフィリピンへキャスタブル製品数種を出荷したほか、その他の国々からも多くの引き合いを得て活況を呈した。4.新製品の開発 昭和35年(1960)の研究所設置以来、当社は新製品を続々と誕生させていった。 昭和37年(1962)には、キャスタブル耐火物のエースともいえるタイコーフォスキャスターを開発し、出銑樋材モノロックの商品化を成し遂げた。また特殊耐火モルタルについても、サーモナイトHMシリーズが好調であった。 さらに昭和41年(1966)、プラスチック耐火物モノウォールHが開発され、商品化とともに大手鉄鋼メーカーから引き合いが殺到した。これは、練土状の適度の可塑性をもつ耐火材で、ランマーなどでたたき込むことにより、目地なしの壁や床が得られ、また1500~1700度の高温に耐えるものであった。フィリピン向けの輸出製品メキシコ向けの輸出製品

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