大光炉材60年史
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31通史 第1部 第1章・創業(1950~1953)3.大光産業の設立 昭和25年(1950)5月1日、大光産業株式会社が設立された。 八幡製鐵所出身の有田一人氏、同じく山野井博氏、宇部市長を務めた山田新松氏ら3人の参加を得て、代表取締役に小林武爾(以下、小林社長と表記する)が就任した。 資本金は50万円、社名は「前途に輝かしく大きな光を持とう」の意で、小林社長による発案であった。本社を山口市に定めたが、業務の実際は八幡市の事務所でなされた。 主な事業は、炉材メーカーから仕入れた各種耐火物を八幡製鐵所に納入することであり、商事会社としてのスタートであった。主力となる商品は、黒鉛と耐火セメントだった。黒鉛は、宇部から仕入れた原料を苅田町の借上工場で加工し、また耐火セメントは東京熱研株式会社から仕入れた。 しかし小林社長は、ただ商品を動かすだけの取引に満足しなかった。独自に耐火セメントの研究を思いたち、九州大学工学部応用化学科に依頼しての試験研究に着手した。ここに、のちの大光炉材の源泉があったと見ることができよう。4.商社からメーカーへ やがて九州大学工学部から研究成果がもたらされ、自社生産において在来品以上の品質を確保できる見通しがついた。品目は特殊耐火セメントであった。 小林社長は、即座にメーカーへの転身を決め、昭和25年(1950)9月、戸畑市(現 北九州市戸畑区)にあった戸畑耐火煉瓦製造所に、技術供与のうえ加工を依頼した。当初は月産15tの小規模だったが、メーカーとしての納入なので価格競争力が強く、品質も好評だった。 その後、耐火特殊セメントにつぐ自社製品を模索するなか、出鋼樋に使用される在来品が十分な耐性を備えていないことを知り、小林社長は同じく九大に樋材の開発研究を依頼したのだった。 まもなくクレーボンド系の樋材の開発に成功し、戸畑耐火煉瓦製造所に製造依頼した製品が八幡製鐵所へと納入されだした。ところが品質ムラと納期遅れが露見するようになり、別の製造所を探さざるを得なくなった。 その後、日本化学株式会社(本社 東京都)とのタイアップが検討された。その結果、八幡市黒崎(現 北九州市八幡西区黒崎)にあった元 日本アルミ株式会社の遊休工場を借用できることになり、昭和26年(1951)5月より、タイアップ体制ながらも耐火物の自社生産が開始されたのだった。5.本格的な炉材工場の設営 元日本アルミの工場では、設備不足ながら樋材と特殊耐火セメントの製造が続けられた。しかし小林社長は、本格的な炉材工場を持ちたい思

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