大光炉材60年史
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30 創業(1950~1953)1.創業者 小林武爾 当社の創業者である小林武爾は、大正4年(1915)9月、中国の旅順(現 大連市)に生まれた。祖父 武人、父 巌ともに軍人で、武爾は祖父の名と二〇三高地をさす爾霊山から1字ずつを受けて命名されたという。三代にわたり少佐を務めた軍人家系であった。 かつて武爾は、「生まれた直後から、軍人で一生を終わるような教育を受けた」と語ったが、実際に日中開戦から太平洋戦争にかけては、大陸で幾多の戦闘に参加している。 その後、大陸から一時帰還して陸軍砲工学校を卒業するが、砲兵部隊長としての赴任を前に、昭和20年(1945)8月15日、日本は終戦を迎えた。その日から日本国民は、復興への長い道のりを歩み始めたのだった。 終戦直後に武爾がまず手がけたのは、復員者援護事務局での引き揚げ者の世話であった。報酬はわずかだったが、戦地から戻った将兵たちの身の振り方に助力する仕事に精魂をかたむけたのだった。しかし妻 寿子と2人の子を養わねばならず、公務を続けながらも実業家としての道を模索する日々であった。 後年、経営者となった武爾は新入社員への訓辞で、こう語った。「終戦直後わたしは、人が10年かかるところを自分は1年でやるくらいのスピードを出さなければ、人に追いつくことはできないと、自らを戒めたのです」(昭和45年6月20日)2.耐火物との出会い 昭和24年(1949)、34歳となった武爾は妻の従兄にあたる山野井博氏を訪ねた。当時八幡製鐵所(現 新日鐵住金株式会社八幡製鐵所)の製鋼課長だった同氏は「耐火物というものをやってみないか」と切り出した。武爾は「耐火物」という言葉こそ知ってはいたが、それが今後の産業においてどれだけの重要性をもつものなのか、具体的なことは何もわからなかった。 しかし山野井氏から紹介されて、炉材課長であった中原文夫氏から詳しく話を聞くうちに、鉄鋼産業には国が積極的保護に動いており、かつ耐火物の領域は新参者でも割り込む可能性があることに気づいた。これまで軍人への道一本で歩んできた武爾だったが、「耐火物」を自分の生涯の仕事にしようと、決意を胸に固めたのであった。 決断すれば、躊躇はなかった。それまで武爾は山口市に居を構えていたが、北九州への陣地替えに動いた。ここでも山野井氏の協力あって、八幡製鐵所の南門近くの寿通り(現 北九州市八幡東区)に事務所を借りた。2階建ての住宅の1階を事務所に、また2階を住居にあて、ささやかながら事業開始の準備を整えたのだった。第1章◇軍人三代の家系◇写真上=小林武人(祖父) 中=巌(父) 下=武爾

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