大光炉材60年史
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105記念座談会 その2[OB座談会]この60年を振り返って中で、一番気品のある方だなという印象を受け、私も少しばかりは、そういった気品のある女性になってみたいものだと思ったものです。 そして、もう一人は、正田美智子様の弟様でした。テレビや雑誌でお見受けしたことはあったのですが、美智子様が正田邸から出られる映像の中で、学生服を着た弟様の映像を見たことがあるのですが、そんな方に私がお茶をお出ししている。私の人生の中で、こんな機会はもう二度と来ないだろうなあ、と思いながら、光栄に思いながらお茶をお出ししていることに、感銘を受けている自分を感じたこと。そんな思い出があります。鳥越 一番印象にあるのは、本社にいた最初の一年間のこと。広い会議室のようなものがあって、そこで、女性だけ、お花とお茶をご年配の先生が、毎週1回、教えに来ていただいて、私たちは習った。みんなお茶もお花も知らなかった。“女性の嗜み”として教えていただいたのが思い出に残っています。それが、今でも役に立っていると私は思っています。また、私が入社した時、ちょうど会社創立10周年の記念行事があった年でした。現在のようにまだ、会社は大きくなっていなかった頃ですから、創業祭には私の母と兄も呼ばれて出席しました。盛大に行われたのを思い出します。梅野 在籍中で一番印象深かったことは、今の会長が、入社した時に、暑いのに青焼きのコピーをしていた。いまはコピーも簡単にできるが、当時の青焼き複写は、ロールにくっついて、夏場にしようものなら、汗びっしょりになってコピーをしなければならなかった。 それを見て、いくら社長の息子さん(現会長)でも、他の社員と同じように、汗びっしょりになって青焼きをするんだなあ、と可哀そうな印象を持ちました。それで扇風機を後ろから持って行ってあげたりしていました。まだ、本格的な冷房設備もない時代でした。福田 一番の思い出は、住金和歌山製鉄所の第二分塊工場でのこと。プラスチック、耐火物の落下事故です。ピットカバーに、モノウォールプラスチックを施工して乾燥するのですが、開発当初のプラスチック耐火物は脱落後にちょっとすると脱落する。また、加熱乾燥したら、また脱落する。モノウォールというのは、保存期間を確保するために、添加剤を入れていたが、これが硬化に悪影響をもたらした。当時の鉄鋼界は増産に次ぐ増産で、設備の増設や拡張が盛んで、和歌山製鉄所もそれまでの海を埋め立てて、拡張した。その海のところに、第二分塊工場が建てられたものですから、日中は陸から海の方へ風が吹くが、夜は逆に海から陸に風が吹く。この風が湿気を含んでいて、夜になると、せっかく昼間乾燥していたものが湿気を含んで、モノウォールプラスチックが緩んで剥離落下を何度も繰り返した。決まって、真夜中に落ちるものですから、山崎組が緊急呼び出しを受けて、その都度、こちらも呼び出しをくらうことになった。それで山崎組が怒った。最初のうちは口もきいてくれないんですね。険悪なことになった。本社研究所から応援隊が来てくれて、とにかく乾燥させることにして、なんとかその場をしのぐことができました。平川 最後に、OBを代表して、大光炉材の後輩たちへ、なにかアドバイスがありましたら、エールの気持ちを込めてお聞かせください。金井 私は職責、仕事、そういったものを離れた、本当に、一人間として、社外に本当に信頼

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