大光炉材60年史
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わせると何千種類、机の上に書いている一覧表を見て、私が首を捻っていると、「木村、お前は敵を知らんから敵を知れ」と一言ですよ。あとは何も言ってくれない。何も言ってくれないということは、自分で考えろということ。だから私は、考え抜いた。購買部だから、原料です。その当時、同業A社が出銑樋材、当時そういう言葉があったかどうかは知りませんが、樋材を少しずつ作っていた。 さあ、これはいかんと思って、A社の購買部にあいさつに行った。すると当初はなかなか相手にされなかった。しかし、私は、実は、新しく購買の方を担当することになりましたと、ところが、原料のことは何もわかりません。だから教えてください。私、分からないものを言いますから、御社で分かっているもの、入荷しているものを教えてくださいとお願いした。もちろん、SiCとかボーキサイトといったようなものについては、知っているわけです。 SiCについては言わなかったが、輸入業者のボーキサイトとか、あれは何トンくらい買えばいいんですか?とか聞いた。すると、向こうから、「木村さん、発注するときどうしていますか?」と、私は「ただ、電話して、例えば2,000トンください」という。注文書などは書かなかった。そんな時代です。 ボーキサイトは、世界に二つしかない。アルキャン、アルコア。日本が取れるのは、アルコア30,000トン、アルキャンが50,000トン。これがアマゾン流域にあると、「私は、そのすべてほしいが、10,000トンをどうにかしたい」と、部長が言った。日本のボーキサイトは当時、日商岩井が1社で抑えていた。 どうにかなりませんかと言われたので、お前さんのところが協力してくれるなら、やろうじゃないか。その1万トンを口頭で注文しようという話になった。この購買部長、名前は忘れたが、鹿児島の甑島出身の方で、釣りが好きな方だった。釣り好きということで私と気があった。日商岩井、アルコアは森村商事、森村商事へ行くときは、東洋陶器の親分だから、虎の門の3階に社長室があるから、秘書に直接会って言わないといけないぞと。今でも忘れない。森村孝明さん。黒崎窯業と一緒に買いたいと言えばいいと、日本のボーキサイト輸入の全部を抑えている日商岩井と森村商事。昭和40年代の半ばごろ。それで、日商岩井へ行ったら、豪州の支配人が購買部に帰ってきていた時だった。顔見て驚いた。なんとその人は、私と小学校6年間が一緒だった菅原さんだった。私の家は酒屋だったが、その人の家は、輸入食料品店。韓国のプサンでやっていた。菅原さんは大阪大学を出て台湾精糖、日商岩井でもその時には常務になろうかという時だった。 それ以後の話のはやいこと。日商岩井の1万トンをピシッと抑えた。その菅原さんの部下に永田さんいう人がいた。その人は英語、中国語も話せた。スペイン語も話せた。その人が担当で、なにもかも、手続きをしてくれた。花田 在籍中、一番印象に残っていることは、どらかというと、会社はもちろんですが、社長のごく身近にいつもいましたので、ご自宅を以前のところから、小倉の泉台というところに新築され移られた。その頃を思い出します。また、現会長が結婚された頃とかを思い出します。原田 私は会長、社長(当時)の秘書をしていたわけですが、お二人のもとには、折々に、色々なお客様が来られました。私はその都度お茶をお出しするわけですが、なかでも印象深いのは、自衛隊関係の方なら誰もがご存知の、元幕僚長の源田実さんが来られた時でした。私も雑誌などで見たことがあるのですが、実際に来られて見た時の驚きは忘れません。パッと見た時の瞳孔の鋭さは、さすがに只者ではないという強い印象を受けました。日本を動かしていた方にお会いできて本当に光栄でした。 それから、最近亡くなられた鳩山威一郎夫人、鳩山由起夫元首相のお母様、鳩山保子さんが来られた時も驚きました。本当に気品のある女性の方でした。私は、まだ若かったので、それほど大勢の人にお会いしているわけではなかったのですが、それでも、それまでお会いした方の104

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