大光炉材60年史
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103記念座談会 その2[OB座談会]この60年を振り返って奈須 私は昭和46年1月から約15年間、営業一筋でここにお世話になっています。入社当時の思い出は、仕事のこともいっぱいありますが、一番の思い出は、4月13日の今日ですよね、創立記念日。昔の話ですが、新入社員が幹事で花見大会をやったんですよ。ちょうどそのとき、君津から帰ってきた梨本さんも一緒でした。二人で一升瓶を1本ずつ持って、サシ44で飲もうと、お互い一升ずつを飲みあげました。その後、工事部にいた竹井君の車で、泉台の社長の家に行ったのを覚えています。 私も先ほどの花田さんと同じで、自衛官出身です。自衛官を4年で満期除隊の時期を迎えたのですが、実社会を全く知らなかったんですね。そんな中、当時、自衛隊出身者がたくさんいたということと、私がいた連隊の先輩で長尾さんという方が大光炉材の総務におられました。それで、長尾さんに電話して、「申し訳ありませんが、ちょっと会社というものを見させてほしい」とお願いしたところ、見学させていただいたわけです。いろいろ、工場内を見させてもらったのですが、よくわからなかった。何がどうなっているのか。その後で、これからちょっと作文を書いてくれと言われました。書き終わると、それじゃあ、いつから来てくれるのか? と言われて驚いたものです。最初に配属されたのが、九州事務所でした。最初、何が何かわかりませんでした。ハイ、これ読んでおきなさいと、渡されたのが、赤本(耐火物手帳)でした。読んでもチンプンカンプンだった。そして、一週間後には研究所の方へ行かされた。そして、営業の方へ回されて、仕込まれていったわけです。梨本 お話を聞いていますと、私も今、当時のことを思い出しております。昭和42年に入社したんですが、入社の前に、私も大光炉材に工場見学に来たことがありました。その時はびっくりしましたね。モンモンと立ちこもる埃の中、黙々と皆さん仕事をしていた。こんなところで、自分も働かなければいけないのか、というのが第一印象でした。私は、営業ではなく工事部の技術スタッフとして、炉の設計などをしていたのですが、そのうち、流し込み樋材という製品ができてきて、それをアピールするために、キャラバン隊を編成した。体の丈夫なものを集めて、10トン車のトラックに大きなミキサー、ベルトコンベアを積んで全国を回った。スタッフは6から7人いたでしょうか。全国の高炉のあるところすべてを回り、当社の製品をアピールするためのデモンストレーションを行った。まあ、これには泣かされました。九州には全く帰ってくることができなかった。さあ、水島が終わったので、そろそろ帰れる(九州へ)かなと思っていると、今度は鹿島へ行け! というように、次から次へと終わらない旅だった。ただ、その時は、みんな若かったので、馬力があった。無理もできたと思います。その時はね。数々の思い出が人・技術を磨いた。平川 それでは次に、大光炉材に在籍中、最も印象に残っていることについて、お話をお聞かせください。木村 仕事のすべてを金井さんに引き継いだ後、私は購買部を担当することになった。もう私は、 文科系の出身でありますから、有機も無機もわからんわけです。何百種類、添加剤を合

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