大光炉材60年史
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で、その後任に私鐵が抜擢されたということでした。私が在職していたのは昭和40年代で、まさに高度経済成長期にあり、昭和45年には八幡製鐵所と富士製鐵所が合併して新日鐵としてスタートした年です。大光炉材としましても、そういった新日鐵で、君津工場の建設に続き、大分工場の建設が行われるなど、ちょうど会社の創生期であったような気がします。 先代社長と常に行動を共にしていたので、分かったわけですが、その当時、社長が大変心を砕いておられたような気がします。工場の設立から、準備から、立ちあがってからうまく進むのかどうか、同席していてそんなところを大変感じました。原田 昭和47年4月に入社。営業部の技術サービスの事務職として配属されました。その後、小林武爾社長(先代)、さらに小林滉(当時)社長の秘書として、21年間勤務。そして、株式会社大光に出向しました。入社当時の思い出はたくさんあって、これという話はできませんが、当時、第一次オイルショックがあって、私の学校もいろいろな企業からの採用が取り消しになったり、就職に苦労した時代でした。私も心配しましたが、幸いなことに、当社とご縁がございまして、入社することができました。しかし、女子高から入ったもので、社会というものも、会社というものも分からない。まったくのピッカピッカの状態で入社したものですから、緊張の毎日でした。皆さんにもたいへん失礼なことをしてしまったのではないかと思っています。で、本日、ここに今、出席しておられる皆さんには本当によくしていただいきました。鳥越 私は昭和38年に入社して、昭和40年の末に退社しました。在籍期間は、わずか3年弱ということになります。会社のこともよくわからないまま辞めていったような形です。入社した頃は、まだ交換室があり、総務で交換士を1年ほどしていました。その後、今は違いますが、その当時、工事部が八幡の中央町にあった。それで、そちらの方に異動になりました。女性は私一人で、部長と課長、あとは、年輩の方たちだけだった。私はまだ18歳で、会社のことはほとんど分からない状態でした。梅野 私は昭和42年8月に入社しました。電話局の紹介で、当時ここにも交換はありましたが、それは資格のない交換でした。そこで正式の電話交換室を作るということになり、配属されました。入った時は事務所という感じで、ただ広い部屋にポツンと交換機があったような感じでした。交換士というのは、皆さん、よく内容が聞かれていいねって言われますが、聞くのはいいのですが、それを口外してはいけないという規則がありました。それでも電話を聞かせてくれと言って、交換室に入ってきた人もいました。もちろんそれは、もうお断りしましたが、今では想像もできないことがいっぱいありました。福田 私が入社したのは昭和35年です。最初は研究所に配属されました。1年後、当時の谷口研究所長(後の谷口専務)から、3年間でいいので、広畑駐在所へ技術サービス員として行ってくれないかと言われ、広畑に赴任しました。後で同僚に聞くと、みんなに声を掛けたが、すべて断られたので、仕方なく最後に私に声をかけたところ、私が承諾したので、決まったということだった。以後、大阪、和歌山、君津と転勤し、昭和55年に本社に戻ってきました。そして平成13年に60歳で定年退職しました。102

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