大光炉材60年史
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101記念座談会 その2[OB座談会]この60年を振り返って木村 昭和27年末の面接の時のことが思い起こされます。先代社長が言うには、「私は陸士(陸軍士官学校出身)だ。君は海軍兵学校出身だから、一対一の時は軍隊長のつもりで話しをする」と言われた。二人の会話はいつも軍隊式になってしまいます。だから、社長とは話が通じるが、他の社員が聞いても、よくわからなかったのではないか。「さもありなん」と言ったりね。いろいろな軍隊言葉が出たものです。また、その際、社長はこんなことも言ったものです。会社とは、「城」のようなものだ。だから、どんなことがあっても、死守しなければならない、と言っていました。さらに、なにかにつけ、 “時間短縮”や“納品証明書”という言葉を頻繁に口にした時代だったように記憶しています。 金井 私は高砂会計事務所という大光炉材の税務を担当していた会社から、人の紹介で入社してきたもので、木村さんのように、社長の怖い面接を直接受けたという経験はありません。そういう関係上、経理部で主に資金管理を担当させていただきました。その後、木村さんの後任として取締役経理部長、そして、株式会社大光に移っております。入社して最初に経理に配属されて感心したのは、素晴らしい先輩方がいらっしゃったということです。梅田さんをはじめ、皆さん、木村さんの片腕となって働いていた方で、かつて新日鐵、当時の八幡製鐵で勤務されていた方たちです。 先ほど納品証明書の話が出ましたが、新日鐵の社内を自由自在に駆け巡って、その納品証明書をかき集めてくるのが、皆さん大変得意な方でした。なぜ、その証明書が必要かと言いますと、草創期の会社というものは、資金難ですよね。大光炉材も最初はたいへん苦労したと思います。それで、納品したらすぐにお金に替えたいわけです。で、その納品証明書を貰って、それを持って商工中金へ行って、「納品しましたから、その分、融資をお願いします」ということで、融資を受けていた。それほど、お金が回らない状態で、代金を払ってもらうまで待てない状態だったわけです。賀来 昭和47年9月から大光炉材にお世話になりました。私が入社した頃、ここにおられる方はご存知かと思いますが、会社は川の淵にあって、プレハブ造りの事務所でした。朝、社長が入ってくると、社員全員が立ち上がって「おはようございます」という、たいへん厳格なイメージの会社でした。いわゆる会社の花型部門である営業、生産、研究、購買ではなく、入社して退職するまでずっと総務畑という後方支援的な部署にいたのですが、面接の際、社長から「総務は間口は狭いが奥行きは深い、頑張れ」と言われたのを思い出します。花田 私は昭和43年12月、先代社長付きの運転手として入社しました。若干20代の私がなぜ、社長の運転手となったかと言いますと、社長は、陸士出身ということで、軍隊経験のある経営者となられた。私も、元は自衛官でした。当時、自衛官退職者を大光炉材は多く採用していて、自衛官出身者は信用をいただいていたように思います。前任者が君津工場の方へ行かれるということ

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