大光炉材60年史
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78 営統合してJFEホールディングスが設立された。さらに、同年11月には新日本製鐵株式会社・住友金属工業株式会社・株式会社神戸製鋼所の3社間での資本・業務提携が発表された。これにより、日本の鉄鋼業界は2大グループに再編された。 鉄鋼業界の再編の嵐のなかで、大光炉材では平成14年(2002)2月に小林仁志が取締役副社長に就任した。小林仁志副社長は昭和48年(1973)年に小林滉社長の長男として生まれ、大学卒業後平成9年(1997)に大光炉材に入社した。入社後は技術習得のために不定形耐火物研究所にて研修を行い、2年目からは新素材開発部で全国のユーザーを回って営業力を培い、平成13年(2001)に新素材開発部部長となった。小林滉社長が持病を悪化し入院期間が長引いたときに社長代理としての業務についた。社印の押印などミスなどが許されない仕事の連続で、引き継ぎをした当初は緊張の連続であったという。しかも、大光炉材の業績は、鉄鋼業界の再編や中国メーカーの台頭などにより、平成14年度(2002)は売上高が一気に落ち込んだ。また、副社長に就任直後、経営の一翼を担っていた渡部公士取締役が急逝したことも大きな打撃であった。 小林仁志副社長の経営参画は、まさに苦難のなかでのスタートとなった。3.給与カットを実施 1990年代からの製品単価の引き下げに対しては、低コスト化と不定形耐火物の用途を広げる新製品の拡大など、総力をあげての企業努力で対応し、業績を維持してきた。しかし、平成14年(2002)の急激な売上高の減少は、それだけで乗り越えることはどう考えても不可能だった。 バブル崩壊以降、企業業績の悪化とともに「リストラ」という言葉はごくありふれたものになっていたが、小林滉社長はリストラや雇用調整をすることは、最後の手段として考え、なんとか打開策を探っていた。このときの売上減少は、自社製品の品質やサービスの低下が原因であるわけではなく、世の中の仕組みの変化に起因するものであった。大光炉材の製品や技術は現場では評価されており、失った取引はいずれ回復できるという感触も得ていた。しかし、その間をどう乗り切るかが課題であった。小山幹男取締役が全社員の給与カットを提案し、小林滉社長は苦渋の決断であったが、給与カットで乗り切ることになった。 小林滉社長は後に行われたあるインタビューで、この時期を振り返って「(業績の急激な落ち込みに対して)全社員の給与カットという形をとらざるを得ませんでした。あの時は本当に心苦しくて、神も仏もあるものかと嘆きました。それでも現在振り返ると、リストラを回避できたのは本当にありがたいことで、皆には感謝しています」と語っている。 この給与カットは、一般社員は平成18年(2006)まで、社長、副社長、専任取締役は平成20年(2008)まで継続して行われた。

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